第4章
医師は言った。
「ちょうどよかった。奥さまのことで、あなたにお話ししておきたいことが――」
「小嶋先生」
そこへ三村加奈子が慌ただしく駆け込んできて、小嶋主任の言葉を遮った。
「215番ベッドの患者さんが気分悪いみたいで……診ていただけますか」
小嶋主任は足早にその場を離れる。
三村加奈子は田中尚哉を一瞥もしないまま踵を返した。
だが、尚哉が進路を塞ぐ。
「莉理はどこだ」
「へえ、まだ莉理の名前、覚えてたんだ。奥さんのことなんて、とっくに忘れたと思ってた」
三村加奈子は大島莉理の親友で、もともと田中尚哉が嫌いだ。けれど、ここまで棘のある言い方をするのは珍しい。
それでも尚哉は気に留める余裕がなかった。手に力がこもり、加奈子の手首をきゅっと掴む。警告みたいに。
「もう一度聞く。莉理はどこだ」
痛みに加奈子の眉が歪む。それでも口は割らず、冷ややかに嗤った。
「莉理を一人で病院に行かせて、あなたは何してたの? 仕事が忙しいって、本当?」
尚哉の目が冷たくなる。
莉理が今この場で全部をぶちまける気がないなら、加奈子だって言うはずがない。けれど、嫌味のひとつも吐いてやらないと気が済まなかった。
「男ってそういうもんでしょ。家のご飯がどれだけ美味しくても、外のクソのほうがいい匂いするんじゃない?」
「どけ」
尚哉は加奈子のオフィスへ真っすぐ向かった。だが、扉は施錠されている。
ドアノブを二度、がちゃがちゃと試し、加奈子を振り返った。
「鍵を出せ」
「は? なんで。ここ、私の部屋。帰って」
そこまで必死に隠すなら、答えはひとつだ。莉理はこの中にいる。
尚哉は扉に手を置いたまま、板一枚越しに低く告げる。
「莉理。帰るぞ」
結婚してから、莉理は他人には淡白でも、自分にだけはいつも優しかった。
振り向けば、必ずそこにいる。そう信じてきた。
――なのに今は、顔すら見えない。
尚哉がしつこく扉を叩くせいで、周囲の患者が不満げに眉をひそめ始めた。加奈子が前に出て、尚哉を押し止める。
「莉理はここにいない。これ以上騒ぐなら、警察呼ぶよ」
尚哉は返事をせず、院長に電話をかけた。
院長はすぐに駆けつけ、尚哉にはへこへこと頭を下げ、加奈子には声を荒らげた。
「早く開けなさい!」
その瞬間、加奈子は思い知った。
田中尚哉は、もう誰かに踏みつけられていた貧乏な青年じゃない。権力も地位も、想像以上だ。だから莉理は――こっそり中絶しようとしてまで、真実を伝えたくなかった。
偏執的な、狂人。
加奈子はついに鍵を回した。
尚哉は扉を押し開け、部屋へ踏み込む。
だが――中は空っぽだった。
背後から、加奈子の嘲る声が飛ぶ。
「無駄無駄。莉理はここにいないよ。もう帰った。今から追えば、間に合うかもね?」
尚哉が振り向く。眼差しは暗く沈んでいた。
「……時間稼ぎか」
加奈子は怯えない。むしろ、わざとらしく笑ってみせる。
「そう。焦ってる顔が見たかっただけ」
尚哉は氷みたいな視線を一度だけ投げ、踵を返して大股で去っていく。
歩きながら、莉理に何度も電話をかけ続けた。
加奈子はふっと息を吐き、隣の科へ入る。扉のプレートには大きく――人工妊娠中絶外来。
病室。
大島莉理はベッドに腰かけ、か細い声で言った。
「……ありがと、加奈子」
尚哉に会いたくない莉理のために、加奈子が外でわざと足止めしてくれたのだ。
「何言ってんの。私たち友達でしょ」
加奈子は不安げに莉理の顔を覗き込む。
「ほんとに決めたの? あなた身体弱いのに……中絶って軽いことじゃないよ。下手したら後遺症だって――クズ男のために傷つくなんて、割に合わない」
そんなことは、莉理自身が何度も考え尽くしていた。
早く終わらせないといけない。時間が経てば経つほど、手放せなくなる。
さっき廊下越しに聞こえた尚哉の声は、昔みたいに熱を帯びていた。偏執的で、頑固で、莉理にだけは優しい男。
私たちは、きっと互いが必要なんだ――そう思い込んできた。
七年分の積み重ね。幾つもの夜。揺らがないはずがない。
けれど、裏切りは喉に刺さった骨のように残る。思い出すたび、込み上げるのは吐き気だけだ。
「加奈子。決めた」
「……分かった。あなたが決めたなら、止めない」
加奈子は他の医師に任せるのが怖くて、手術は自分で担当すると言った。
手術直前。
加奈子が握った莉理の手は、驚くほど冷たい。氷みたいに。平静を装っているだけで、内側は震えているのが伝わってくる。
莉理は目を閉じた。
脳裏に、尚哉がかつて囁いた甘い言葉が勝手に蘇る。
「子どもができなくてもいい。俺たち二人で十分だ」
「莉理、お前が一番大事だ」
「違う。お前だけが、俺の唯一だ」
――けれど、その全部を切り裂いた言葉がある。
『柚奈……子ども、産んでくれ』
加奈子がなかなか動かない気配に、莉理は目を開けた。
灯りに照らされた瞳の奥が、うっすら濡れている。だが、その下にあるのは揺るがない決意だった。
「加奈子……お願い。やって」
加奈子は小さく息を吐き、ゆっくりとメスを取った。
そこから先は、ひどく混濁していた。
悲鳴。泣き声。濃い血の匂い。医師と看護師の切迫した声。ぐちゃぐちゃに絡み合い、頭の中が白くなる。
病室に戻っても、その光景は脳裏に貼りついたままだ。
加奈子が白湯を注いで差し出す。
「大丈夫?」
莉理は答えられない。
さっき運ばれていった妊婦。白いシーツが血で真っ赤に染まっていて、目を逸らしたくなるほどだった。
手術室に入ってから一時間以上。状況も分からないまま、家族には危篤の知らせまで出たという。
家族は床に座り込み、泣きながら縋っていた。
「母子ともに助けてください」と。
もし、自分が同じ目に遭ったら。
五十を過ぎた両親は、きっと壊れるほど悲しむ。
田中尚哉は――むしろ喜ぶかもしれない。愛人と堂々と一緒になれるから。
その想像に、背筋がぞくりと冷えた。
莉理の震えを、加奈子は恐怖だと思ったのだろう。優しく宥める。
「妊娠ってそういうものだよ。産むにしても中絶にしても危険はある。大出血だって珍しくない……私だって、絶対安全なんて言えない」
手術にリスクはつきものだ。どんな医師でも、断言はできない。
加奈子は血の気のない莉理の顔を見て、痛ましげに言葉を続けた。
「怖いなら、一回帰って考え直してもいい。身体弱いんだし、少し整えてからのほうが回復も――まだ初期だよ。時間はある。焦らなくていい」
莉理はコップを強く握りしめ、掠れた声で言った。
「……もう少し、考える」
……
家に戻る頃には、外はすっかり暗かった。
リビングは灯りもついておらず、真っ黒な闇。
靴を脱いで顔を上げた瞬間、ソファに人影があって、心臓が跳ねた。
次の瞬間、ぱちりと灯りが点く。
そこにいたのは、田中尚哉だった。
心も身体も疲れ果て、相手をする気力がない。莉理は見なかったことにして、二階へ上がろうとする。
「莉理、どこ行ってた」
「病院」
ソファの横を通りかかったとき、尚哉が手首を掴んだ。反射的に振りほどきかけて、ぎりぎりで堪える。
莉理は薄い笑みを作った。
「……何か用?」
「胃薬、どこだ」
そこでようやく気づく。尚哉の顔色は異様に白かった。
「テレビ台の下。三段目の引き出し」
家の薬はいつも莉理が管理している。考えるまでもない。
尚哉は立ち上がって薬を取りに行く。胃痛のせいか、動きが鈍い。
けれど、どれだけ待っても莉理は手を貸しに来ない。
苛立ちを飲み込み、尚哉は薬を飲んだ。
胸の奥が苦しくて、振り返り、莉理の細い身体を抱きしめる。
「お前が家にいないと……誰も俺の面倒を見てくれない……」
